SENSA

2021.04.19

カネコアヤノ 「よすが」"大事なことは言葉にするよ"とカネコアヤノが言えるのは

カネコアヤノ 「よすが」"大事なことは言葉にするよ"とカネコアヤノが言えるのは

「大事なことは言葉にするよ」とカネコアヤノが言えるのは

 アルバムの幕を開ける「抱擁」のイントロ一音、歌い出しのひと声で、自信も不安もあらわになっている。自信は、このバンドと彼女が時間をかけて積み重ねてきたサウンドへ。力強くファンファーレでずんずんと前に進むのではなく、柔らかい光に包まれるようなまどろみの感覚に、この場所への信頼を感じる。
 そして不安は、1年経っても決して晴れやかにはならなかったこの状況へ。シンガー・ソングライターとして、ライブを愛するパフォーマーとしての機会の多くを奪われただけでなく、一個人としてのカネコアヤノ自身も新型コロナウィルスに罹患してしまった。さいわいにも深刻な症状もなく復帰できたとはいえ、その時期に彼女が感じた不安は、外野が想像するだけではとても及ばないものだろう。
 「抱擁をまっていた 胸の中で まるで私が聞き分けの悪い赤子のように」
 へだてられ、引き離されることを本能で拒否する赤ん坊に自身をなぞらえた一節は、他人事のように見過ごそうとしている誰かの心をかきむしる。
 だが、「抱擁」や、このアルバム『よすが』がドキュメンタリー的な作品だと言いたいわけじゃない。「孤独と祈り」「栄えた街の」「閃きは彼方」といった曲にコロナ禍の痕跡が見える、みたいな単純な話でもない。状況は変わっても、カネコアヤノという表現者が持っていた本質は変わらず、それがよりはっきりと浮かび上がったのだと思うから。
 それはつまり、カリスマ的なシンガーが与える永遠で無条件の博愛や「私を受け入れろ」ではなく、フィクションとして希釈されてしまうぎりぎりのところで踏みとどまる「わたし」と「君」がいることで成り立つ歌と言葉。リアルな「わたし」の気分はどうとでも変わっていくし、見えていく景色も関係も変わっていく。その喜びもせつなさもどこまでも正直に受け入れて放り出す。だからだろう、カネコアヤノの歌う言葉には完成品としての「歌詞」を飛び越えて、同じ言葉でも、聴き手のなかでどうとでも変化しうる「詩」になる瞬間が無数にある。
 2020年春、最初の緊急事態宣言が出る直前にシングル「爛漫/星占いと朝」が出た。世の中がウィルス蔓延におびえはじめたあのタイミングで力強い曲を出せる彼女を頼もしく感じた。そしていま、『よすが』でアルバム・ヴァージョンとして再録音された「爛漫」を聴き、アレンジが大きく変わったわけでもないのに、歌の持つ意味が変化し続けていることを感じる。彼女のなかでも、一年前のぼくらと今日のぼくらのなかでも。何がどう変わろうとも、誰かと関わりながら生きていくこと。それが"よすが(縁)"ということだ。
 「大事なことは言葉にするよ」(「栄えた街の」)と言える一途さがまぶしいのは、彼女が強い人だからじゃない。彼女がいまを生きている人だからだ。

文:松永良平(リズム&ペンシル)


カネコアヤノ、ロマンス宣言ならぬ、リボーン宣言。

 心の拠り所、という意味を持つアルバム・タイトルさながらに、彼女自身、自らの居場所に今一度立ち返ったことを伝える重要作だ。あるいは、このアルバムがなければ、カネコアヤノは迷走しながらどこかで息切れしていたかもしれない。危ういところを救ったのは、他ならぬ彼女自身の逞しさだった。
 いや、実際は危ういどころか、止まらない加速する一方の右肩上がり状態。『祝祭』『燦々』と力作が続くその勢いに、多くの人が順風満帆を感じ取ったことだろう。だが、一方でカネコは自分でもわからぬうちによすが......居場所を見失いかけてたのではないか。彼女のライヴをフル・バンドで観たのは『燦々』リリース後のあるフェスでのことだったが、その時のバランスのとれた堂々たるパフォーマンスに安心感を覚えながらも、そのバランスは果たして彼女に必要なイディオムなのだろうか?とも思った。彼女には全く不必要なイディオムに向き合うことで、彼女は本来の居場所を封印してしまったかのようにもみえた。
 では、自らの居場所とはどこか。それは、彼女自身持て余すほどに感情の機微を自在に発露する、その慢心なき衝動そのものだろう。カネコアヤノは嬉しい時には喉の奥まで見えるほど大きな口を開けて笑い、腹に据えかねることを話す時には口を尖らせて切れ味鋭く言葉を投げつける。泣いているところは見たことがないが、声の限り叫んでいるところはおそらく多くの人がライヴを通じて見ているはずだ。それはコントロールという言葉を知らない、あまりに純潔な乙女が初めて"感情の雪崩という表現"を知った時のように無敵だ。純潔が過ぎるが余り、筆者はカネコアヤノの作品とライヴに最初に出会った時......それはデビューから数年経った頃のことだったが、その"感情の雪崩という表現"に強烈な拒否反応さえ覚えた。近寄りたくないほど、その千々に乱れた表現はエグかった。

 だが、久しぶりに本作では、その近寄りたくないほどに、もうどうしようもないほどにあらゆる感情が入り乱れる状況が起こっている。これだ、この所作など度外視した自制できない感情の雪崩現象。これこそがカネコアヤノの"よすが"なのだろう。

 とにかくどの曲も、彼女の歌は泣いているのか笑っているのか判別ができない。けれど、泣き笑い、という言葉さながらに複数の感情が一つになっているということではなく、もはやこれが笑うべきことなのか、泣くべきことなのかさえナンセンスとでもいうかのように表も裏も横も縦もない。とにかくうまくまとめようとしていない、その雑然と発せられる状態に強烈な生命力が宿っている。
 思い切り声を張り上げるように歌うカネコの唱法は、時にがなり立てているようにも聞こえ、ともすればそれは歌以前の反射的な行為そのものだ。それを歌という鋳型に押し込められてしまうことを、カネコは徹底的に嫌う。でも、一方で、多くの人に聴かれたいという願望が本能を妨げてしまうことがあり、そのジレンマがまた次の反発的な感情を生む......という奇妙なサーキュレーションが、このアルバムで実に鮮やかなまでに表出されていると言っていい。「孤独と祈り」「腕の中でしか眠れない猫のように」「追憶」といった、明らかにコロナ以降に書いただろうリリックの曲で、そうした逡巡が味わえるはずだ。感染症拡大によって当たり前のことができなくなった日常に屈することも、反抗することもなく、ただただそこにいるだけの日々がカネコアヤノに気づかせたものは、屈することに怒り、反抗することにも疲れ、泣きたくなったら大声で泣いてしまうということを、おそらく誰も咎めないという事実だ。なぜなら、そこは自分一人しかいない小さな部屋の中だから。小さな自分の部屋の中にいる毎日が、誰に何言われることもなく好きなように感情を放出させていたこと、それこそが自分のよすがであることを思い出させたのではないか。

 だが、林宏敏、本村拓磨、Dr.Bobといったお馴染みの仲間たちを従えた演奏自体は意外にも素朴でさえある。去年リリースされたテイラー・スウィフトの2枚のアルバム『folklore』『evermore』を思わせるほどにフォーキーで、無論、テイラーが自身の民族的/指向的アイデンティティを意識した上でそうしたサウンド・プロダクションに向かったのとは根っこにある狙いがやや異なるのだろうが、自分以外の仲間たちにアレンジや演奏のディレクションをある程度委ねていったという点は共通していると言っていい。これまでになく風通しのいい演奏の中にいるからか、カネコが自由に感情を撒き散らしてもエグみはなく、それどころか静かに歌に向き合っているようにさえ聞こえてしまう。

 しかし、ここでのカネコアヤノの歌はなんと生き生きとしていることか。あれもこれもそれも全部誰の目も気にせずぶちまけるということが、彼女の生命線であるというテーゼ。もし、本作の制作によってそこに彼女自身が気づいたのだとしたら......これからのカネコアヤノは本気ですごいことになるのではないだろうか。

文:岡村詩野(TURN)





RELEASE INFORMATION

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カネコアヤノ「よすが」
2021年4月14日(水)
Label: 1994
NNFC-09 / 価格¥3,000(税込)

Track:
1.抱擁
2.孤独と祈り
3.手紙
4.星占いと朝
5.栄えた街の
6.閃きは彼方
7.春の夜へ
8.窓辺
9.腕の中でしか眠れない猫のように
10.爛漫(album ver.)
11.追憶

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オフィシャルサイト
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@kanekoayanodayo
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