2025.09.18

L→R:オダキッペイ(G)、オオグロマサミ(B)、スズキタイヨウ(Vo/G)、ヤマオカテッタ(Dr)
幸せすぎてしんどいっていうのもあったかもしれない
─もともとタイヨウくんとオダくんが別々の高校の軽音部にいて、ほぼ初対面でバンドを結成することにしたそうですね。
スズキタイヨウ(Vo/G):お互い高校でコピーバンドをやってて、どっちもメンバーにそれぞれの幼なじみのやつがおったんです。で、「銀杏BOYZ好きなやつおるで」みたいに紹介されて、オダが僕のインスタにDMを送ってくれて。そこからしばらく会うことはなかったんですけど、バンコミっていう地域の軽音部が集まるコミュニティみたいなのがあって、そのイベントで会ったときにバンドを組むことになりました。
─銀杏BOYZが共通点だったんですね。
オダキッペイ(G):俺らの住んでる高槻とか茨木は大阪の中でも地価が高くて、わりといいとこの街なんです。だからみんなが上を向いてるような感じなんですけど、下を向いて、銀杏BOYZを聴いてるのが、高槻と茨木含めて俺とタイヨウのふたりだけで。
スズキ:体感な(笑)。俺らの世代だと高2くらいから銀杏BOYZを聴くやつが増えるけど、高1の段階では俺らの周りではマジでふたりやった。だから(オダが)ギターを弾いているところも見たことなくて、どれくらいギターうまいかも知らずにバンドを組んで。
─タイヨウくんのオリジナルを初めて聴いたのもバンドを組んだ後?
オダ:そうです。タイヨウがバンドとは別に、違う名義で曲を作って、YouTubeにあげたりしてるのを後から知って、おもろってなりました。
スズキ:"ペリカンの風"っていう名前で(笑)、ほんま趣味というか、中学校の頃はやることがなかったから、Cubaseで曲を作って、MVも作って、とにかく自分で作ったものを出す、みたいなことをやってました。そのいちばん最後に作った曲をgrating hunnyの1曲目として持っていって、それが「student」になったんです。


─オダくんとオオグロくんはもともと同じ高校の軽音部で、オオグロくんはふたりを通じて初めて銀杏BOYZを知ったそうですね。
オオグロマサミ(B):そうです。「こんな感じのバンドをやりたいねんけど入る?」みたいに言われて、銀杏BOYZを聴かされて、ほんまに今まで聴いたことがなかったから、めっちゃ昂って、すぐに「入る!」って感じでした。
─ヤマオカくんは途中からバンドに加入。それはどういう経緯でしたか?
ヤマオカテッタ(Dr):オダから急に「バンド入らない?」っていうDMが来て。
スズキ:自分の高校とテッタの高校の合同イベントが高1の夏にあって、そのときに「うまいドラマーがおるな」っていうのはずっと頭の片隅にあったんです。で、初代のドラマーが抜けちゃうってなったときに、テッタのことを思いついたんですけど、DMを送る勇気がなくて、「こういうのマジ苦手やから」って、オダに送ってもらいました。
オダ:テッタは俺らの知らんところで、インスタでドラムの動画をあげてて、俺らの楽器歴よりも深くドラムをずっとしてて。
─ヤマオカくんは銀杏BOYZは聴いてましたか?
ヤマオカ:いや、それまではKing Gnuとかを聴いてたんですけど、このふたりに会ってから銀杏を聴き始めて、バンドをやり始めたらめっちゃ楽しかったんです。


─銀杏BOYZ以外だと、どんなバンドを共有して、どんな方向性を意識していましたか?
スズキ:僕はほんまのことを言うとandymoriみたいなバンドがやりたかったんですよ。ポップなロックというか、若干今そういうことになってるかもしれないけど、でもオダがとにかく「俺は銀杏がやりたい」みたいな感じで、僕のなかで銀杏に寄っていった感じ。あとPK shampooは僕がほんまにずっと好きなバンドで、みんなにも聴かせて。
─「高槻で下を向いて銀杏BOYZを聴いてたのはふたりだけ」っていう話があったけど、タイヨウくんは何に対して鬱屈した気持ちを抱えていたのでしょうか?
スズキ:比べられて育った、みたいな感じはあるかもしれないですね。塾ではランクをつけられて、賢さによってクラスを割り振られ、みたいな。それが嫌だったのもあったし、でも幸せすぎてしんどいっていうのもあったかもしれない。なんでもできてしまうなって。このままだと多分、地域の人たちと同じように、いい大人になっていくんやろうなっていう、そこに対する焦りがあったのかもしれないです。
─バンドを高1の終わりで組んで、高2になると年間50本ライブをやってた。Xのポストに「4人だけで軽音部を抜け出して、ノルマを稼ぐために校則破ってバイトして続けてきた」ってあったけど、それも学校や地域に対する反動だった?
スズキ:そうなんですけど、でもちゃんと「テスト期間はライブをやらない」みたいな感じだったんですよ。テスト期間の月はほんまにライブ1本とかで、テスト期間じゃないときに12本とかやって、それで50本行った感じだったんで。
オダ:だから「学校から逃げたい」っていう気持ちと......。
スズキ:「ちゃんとせなあかん」っていう気持ちで揺れてた時期かも。
─高3のときに発表した「Don't forget grating hunny.」では〈きっと明日も一人ぼっち ライブハウスだけが居場所で〉と歌われていますよね。
スズキ:あの歌詞を書いたときの気持ちは、ライブハウスが居場所になってることが怖かったんです。今でこそライブハウスが居場所になったけど、当時で言うと......ほんまに裕福な街で、きれいに育ってきたから、ステッカーとか落書きがいっぱいあって、タバコの臭いがする楽屋みたいな空間が、高校生の自分たちにはほんまに初体験で。
オダ:一気にアングラ、みたいな。
スズキ:そうそうそう、人生で一気にそういうものを吸収した時期やったから、「ライブハウスが居場所になってていいのかな?」っていう気持ちもあって、それで高校ではテストもちゃんと頑張ったりしてたのもあるかもしれないですね。

今ほんまにいちばんパンクロックできてる
─現在のホームになっているライブハウスが寝屋川VINTAGE。そこで出会った人たちからはどんな影響を受けましたか?
オオグロ:バンドをやる上でのスタンスは寝屋川の先輩たちから影響を受けました。
スズキ:大阪市内のライブハウスは、ビジネス色が強いというと言い方が悪いけど、アーティストとライブハウスの関係性がしっかりしてるから、呼ばれたら僕たちもそれに応える、みたいな感じ。でも市外のライブハウスになると、コミュニティがあって、一緒にライブを作っていく、シーンを作っていく、みたいな感覚が強くて。「今日のライブよかったよ」みたいな、上辺のことを言うだけじゃなくて、ちゃんと伝え合うことが愛やし、それがあったからバンドを続けてこれたというか。
─ただノルマを払って終わりじゃなくて、ちゃんと関係性が築けた。
スズキ:だから先輩たちも寝屋川でやってる後輩が来たら、寝屋川を一緒により良いものにせなあかんから、育てる責任を持って接してくれたんやろうなって。それこそthe paddlesとBlue Mashも高校時代から活動してて、学業とバンドを両立させて大学に行ってるんです。その背中を見てたのも大きいかもしれない。
─grating hunnyも高3の後半はライブ活動を休止して、受験をしてたんですよね。
オダ:「勉強とライブどっちもやれ」って言ってくれたのって、ほぼ寝屋川の先輩だけじゃない?
スズキ:そうだね。「テストなんかどうでもええやん」って言ってくる人もおるけど。
オダ:でも寝屋川の先輩は「どっちもやれ」って言ってくれて。
─本当にバンドを長く続けようと思ったら、そっちの方が大事だと。
オダ:責任感を持って、全部本音で話してくれたと思います。

─SEEZ RECORDSとはどのタイミングで出会ったんですか?
スズキ:それがめっちゃ早くて、高2の6月でした。初ライブが高1の1月だったから......。
─半年ちょっとぐらいだ。
スズキ:その頃はまだ月に1本〜2本みたいな感じだったから、力さん(吉田力/SEEZ RECORDS代表)が見にきたライブがまだ10本目とか。お客さんも3人くらいしかおらんくて、奥の方にでかい力さんがひとりで立ってて(笑)。しかもライブ前に来ることを聞いちゃったんですよね。多分力さんは僕たちを緊張させないために、スタッフの人だけに言って入ってるんですけど、スタッフの人がそれを僕らに言っちゃって。なのでほんまに(気持ちが)かかりまくって、僕そのライブは最後ギターの弦が(切れて)残り2本、みたいな感じでした(笑)。
─活動休止期間を経て、今年の春からライブ活動を再開して、7月にSEEZ RECORDSからの第一弾として「インソムニアの底で」がリリースされました。この曲をSEEZ RECORDSからの1曲目に選んだのは、どんな理由があったのでしょうか?
スズキ:「SEEZ RECORDSからの1曲目を作るぞ!」みたいなのはあんまりなくて、grating hunnyの最新曲として、今の僕たちができるいちばんエグいことをやるぞ、みたいな気持ちで作った曲でした。ここまで逆張りでパンクをやってきて、みんなライブだと最後にワーッて盛り上げて終わるけど、「パンクバンドなのにゆっくりの曲で終わったらどうなるんだろう?」みたいな、逆張りの逆張りの発想で考えて、結果素敵な曲になりました。
─以前の曲は絶叫が入っていて、それがパンク的なかっこよさに繋がってたけど、「インソムニアの底で」はロマンチックなムードもあるのがいいなって。
オオグロ:今までの俺らとは違うぞ!みたいな感じ。
オダ:年齢の変化も出てるかもな。
スズキ:正直パンクロックをやってたのも、やれることが少なかったことの照れ隠しじゃないけど、それでパンクロックって名乗ってた部分もあったっちゃあって。でも今は正々堂々、精神性としてのパンクロックをやれてる意識がありますね。
─「PUNK ROCK by YOUTH」というコピーはいつから使ってるんですか?
スズキ:「若者によるパンクロック」っていう言葉は高2の6月に考えて、「PUNK ROCK by YOUTH」にしたのが10月からかな。
オオグロ:最近になってやっと胸を張って言える気持ちになってきたというか、当時は後ろめたさも若干あった。
スズキ:そうなんですよね。だから今ほんまにいちばんパンクロックできてる。当時は結果的に「パンクロックっちゃあパンクロックか」みたいな、ごちゃごちゃしてて、叫んでて、「じゃあパンクなんかな」みたいな感じだったけど、今は優しさとか、正直さみたいな、精神性も含め、先代から受け継がれてるパンクロックをちゃんとできてるかなって。
─「インソムニアの底で」は演奏もアレンジも確実にレベルが一個上がっていて。それは休止期間にそれぞれがスキルを伸ばしたのもあると思うし、レコーディングの環境も変わってたりするんですか?
スズキ:高2で出した「音楽準備室」からずっと伊豆スタジオを使ってて、環境自体は変わってないんですけど、当時は「大人めっちゃおる」みたいな感じだったんですよね。それまではメンバーとエンジニアと、5人とかでレコーディングしてたけど、伊豆スタジオでは10人ぐらいおって、最初はカチコチになりながらやってて。でも「インソムニアの底で」の合宿まででだいぶチームになったので、ちゃんと自分たちから意見を言えるようになったし、そもそもこだわりが増えたかもしれない。イメージが4人でガシって固まった状態で臨んで、隅から隅まで追求してレコーディングできた初めての曲かもしれないです。
─どんな部分を大事にしましたか?
スズキ:ボーカルで言うと、もともとカラオケで僕が歌ったらみんなが爆笑するぐらい歌が下手くそな状態でバンドが始まってて、自分の気持ち的にも、曲やライブにはプライドがあるけど、歌に関してはずっと「大丈夫かな?」みたいな感じだったんです。でもこの曲のレコーディングは、歌い方によって嘘に聴こえたら嫌やなっていうのがあって。
オオグロ:ある種、ストレートな歌詞やからな。
スズキ:そうそう。歌う人によっては薄っぺらくなっちゃいかねへん歌詞やと思ったんで、〈君のことが好きだよ〉の1行だけでも何回も歌い直したり、声色に説得力を持って歌いたいと思ったんです。これまでのレコーディングは「もう一回ちょうだい」って言われたらもう一回歌う、みたいな感じだったけど、このレコーディングは自分から「もう一回歌わせてください」って、初めて言うことができました。
オダ:タイヨウはボイトレにも行き始めて、技術的にも上がってるし、自分の喉とか声の出し方をどんどん把握してきてるから、タイヨウがタイヨウでしか歌えない歌と言葉を出せるようになってきて、ボーカリストとしての成長を感じます。
スズキ:あと「インソムニアの底で」はgrating hunnyを聴いてくれてる人をイメージして書いたというか、お客さんの顔が浮かびながら書けた初めての曲かも。

─grating hunnyには「僕みたいな奴へのパンクロック」というコピーもありますよね。
スズキ:それは高2のときに、それこそ力さんと会って、資料を作るときにポロっと言った言葉ですね。でもそれ使われるの一回限りだと思ってたら、ラジオとかに呼んでもらうと毎回それを言われて、ちょっと恥ずかしいと思ってたんですよ。でも大学生になって活動を再開して、大人になったじゃないけど、高校生のときとまた違う気持ちでライブをやったり曲を作る上で、自分たちの活動ってほんまにそうやなって思い直したかも。
─最初にオダくんと知り合ったときも「似たようなやつがいる」みたいなところから始まってるし、自分たちと同じような誰かに届いたらいいっていう目線はありそうですよね。
スズキ:バンドをやっていけばやっていくほど、音楽以外のことも考えないといけない瞬間があったりするじゃないですか。SNSがどうとか、動員がどうとか、それ以外にもいろいろ考えなあかんことをぐわって考えて、パンクしそうになったときに、結局「僕みたいなやつに音楽が届けばいい」っていうのに行き着くんですよね。他のことがもしできひんくなったとしても、それができたら100点よなって、最近特にそう思います。
オダ:僕はもともと体が弱くて学校にあんまり行けなくて、それで授業にもついていけないし、やれることが人よりも少なくて、それが苦しかったなかで、バンドに行き着いたんです。YouTubeに上がってる銀杏BOYZの2002年のライブ映像を見て、「俺らのヒーローや」ってなった。だから今度は僕らのことを見て誰かがバンドを始めてくれたら嬉しいです。
誰にもわかってもらえない人をわかってあげたい
─8月にリリースされた「student」はバンドで初めてレコーディングをした曲。当時の音源を再ミックスしてリリースすることにしたのはなぜだったのでしょうか?
スズキ:最初は「録り直したい」って言ってもらったんですけど、僕たち的には録り直しても、この曲を最初に録った高1のときの気持ちを超えられへんと思ったんです。人生で初めてバンドを組んで、初めてレコーディングスタジオに入って、自分の曲が形になって、「これが配信されるの?」みたいなワクワクが、サウンドにも歌詞にも詰まってると思ってて。今の4人で初めて鳴らした音でもあるから、この衝動やキラキラを上書きしたくないし、「student」を録り直すためにレコーディングスタジオを一日借りるんやったら、今の自分たちで作る曲をやりたいっていう気持ちでした。
ヤマオカ:これバンドに入って、まだライブをする前に録ってるんですよ。
スズキ:前のドラムが辞めちゃうってなって、春休みにスタジオ入って、すぐレコーディングして。そのときのことは鮮明に覚えてますね。
オオグロ:僕この曲のベースライン気に入ってるんですけど、マジでまぐれでできたんです。ペーペーやから別に手癖があるわけでもなく、でもルートばっかり弾くのも面白くないよなと思って、適当に左手と右手をやってみたら、なんかかっこいいやんこれって。そのときに自分のなかで、曲に対しての価値をちょっとは付けれたかな、みたいな気持ちが初めて生まれたから、そういう意味でも思い入れがあります。
オダ:「student」が自分たちのワナビーの一歩目というか、学校の友だちからしたら、ライブハウスに出ても、「何してるのかようわからん」みたいな感じだったけど、音源が出ることで、真剣にやってるってわかる。そういう意味で自分たちのアーティストとしての第一歩だったから、すごくワクワクしましたね。力さんに見つけてもらったときも、「student」がいいって言ってくれたのがすごく嬉しくて。楽器を始めて1年とかだから下手なのは当たり前で、でも姿勢や歌詞を評価してくれて、今も関係性が続いてるのは嬉しいです。
スズキ:当時の友だちからすると、「バンドやってるの?(笑)」みたいな感じだったんですよ。カラオケで歌ったら爆笑されるぐらいだったんで、「タイヨウが自分で歌うバンド組んだん?どういうこと?」みたいな。そんな中で、力さんとかが自分たちの音源の本質というか、センスの部分をいいと思ってくれたのは、間違ってなかったなって。
オオグロ:「student」を冷やかしで歌われたりして、当時は笑って、「やめてよ〜」みたいな感じだったけど、内心「なんやねんあいつら」って。あれは最悪やった。
スズキ:学校で流れると「タイヨウのやつ流れてるよ」って、みんな笑いを堪えるみたいな、そういう思い出の曲でもあるな。「クソ!」と思いながらも大事にしてきた曲。
─何かを表現してる人はむしろ憧れられたりする気もするけど、学校の校風なのか、SNSがあるからなのか、はみ出すことがよしとされてなかったのかもしれない。でもタイヨウくんはそこに違和感があって、もっと自由に自分を表現したかった?
スズキ:中学の頃からやりたいことはあったけど、やり方がわからへんくて、親もちゃんと高校行けって言うから、とりあえず高校に行って。でもそこでバンドが見つかったから、勉強も頑張るけど、決められたレールの上を行かへんでもいいなっていうのは思ったかな。
─「student」もそうだけど、タイヨウくんの歌詞にはたびたび自転車を漕ぐ描写が出てきますよね。これも自由にはみ出していくことの比喩になっているように感じます。
スズキ:これは中3の高校受験のときに書いたんですよ。ほんまに塾の帰り道で、長い坂があって、ペダルを漕ぎながら、〈俺の漕ぐチャリと俺の描く未来が〉って、歌詞とメロディーを同時に思いついて。中学校の制服を着てる僕がこれを歌ってる動画とかもあるし、だからまだレールの上を歩み中の曲ではあるんですよね。
─9月17日には新曲「未成年だった」がリリースされます。タイヨウくんはMCでも時々お母さんの話をすることがあって、この曲にはお母さんに対する想いも込められているそうですが、どんな背景があるのか話してもらえますか?
スズキ:大学は結果的にAO入試やったんですけど、途中までは一般試験で大学に行こうと思ってて、みんなと一緒に塾に通ってて。で、6月のある日に塾から帰ってきて、家に着いたら、お母さんが首を吊って死んじゃってて。もしかしたら何かの病気だったかもしれないけど、それもわからんし、遺書もなく、ほんまに突然のことで。それで塾もやめて、学校にも行かず、一旦生活がストップした時期があったんです。お父さんとお兄ちゃんは仕事や大学に行き始めて、おじいちゃんが家事をしにきてくれてたけど、寝てるふりして無視して、高校からかかってくる電話にも出ず。だから、「未成年だった」はお母さんが死んで、生活がストップしてた時期の自分の歌ですね。
─それでもバンドは続けたわけですよね。
オダ:意外とケロッとした部分もあったよな。
オオグロ:それは俺もめっちゃ思った。
スズキ:まあなんていうか......嘘すぎるというか、現実味が今でもなくて。ちょうど「閃光ライオット」の3次予選に行けるってなった次の日に死んでたんです。だからほんまに何が何だかわからんけど、「閃光ライオット」は憧れやったから出るし、みたいな感じ。「閃光ライオット」がなかったら、もしかしたら止まってたかもしれない。僕が第一発見者やったんですよ。塾から帰ってきて、呼んでも返事がなくて、パッと見たらクローゼットで首を吊ってて。お父さんもお兄ちゃんもいなかったんで、警察に電話して、救急隊が15人ぐらいぶわっと入ってきて、ほんまドラマみたいな、わけわからなくて。
─気持ちを整理するためにこの曲の歌詞を書いたような部分もある?
スズキ:歌詞を書くときは、作品としていいものを作るんだっていうモードのときと、生活の記録として書くときがあって、これは曲を作ろうと思ったときに、リアルに書ける思いがこれだけやったっていう感じかもしれないです。マジで記録って感じやな。
─〈注射器みたく君が笑うから 僕は信じてた〉はお母さんに対する想い?
スズキ:注射器は体を良くするためとか、メリットを求めて打つものだけど、ブスッて体にさして、痛みを伴うものじゃないですか。誰かに優しくしたり、励ましたりするときって、絶対痛い部分があって、傷つきながら人を守ってると思うんです。お母さんの笑ってる顔を思い出すと、もちろんアホみたいに笑ってるときもあったけど、自分がきつくても、誰かを笑顔にするために笑ってるときもあったと思う。お母さんはそれをやってくれてて、だから僕はお母さんのことが好きだったし、信じられてたよっていう歌詞ですね。
─後半のモノローグの部分にはタイヨウくんの感情がよりダイレクトに表れているように思います。
スズキ:編曲は大変やったな。この曲のデモを渡したのが、みんなの受験が終わったぐらいで、「インソムニアの底で」は受験勉強しながら各々考える時間があったけど、「未成年だった」はレコーディングまであと1ヶ月だぞ、みたいな状態で編曲が始まって。
オダ:でも「インソムニアの底で」もそうだけど、歌詞に沿った曲の表情のつけ方ができ始めたというか。「高槻」とかはただでっかい音を出して、やりたいことをやるみたいな感じだったけど、ちゃんと起承転結があって、ストーリーっぽく作れましたね。
スズキ:伊豆スタジオで一回録り切ったんですけど、歌はもうちょい行けるぞってなって、また別日に東京に行って録り直したんですよ。「インソムニアの底で」もそうだけど、この曲も歌の説得力が大事やなって、そこを追求した曲かもな。
─「未成年だった」にも「僕みたいな奴」への視点、同じように大切な誰かを失った人にも響いてほしいという想いがありますか?
スズキ:正直この曲に関しては、自分勝手な歌詞かもな。この曲はメロディーができたのが高3の10月とかで、この歌詞が3個目で。一回全然違う、それこそ作品モードの感じで書いたラブソングの歌詞があって、でもこれちゃうかってなって、高校に行ったり行かなかったりしてる自分のことを書いた歌詞もあって、でもこれもちゃうかってなって、自分の個人的な、誰に言うでもないことを歌詞にしたら、それがいちばんハマって。自分のことを書かせてもらう分、だったら全部言い切った方がいいなと思ったから、最後のしゃべる部分もそうだし、出し切るつもりで書いた歌詞でしたね。

─個人的なことを書き切った曲が逆にいろんな人に刺さったり、届いたりすることも音楽のマジックだと思うから、この曲が世に出たときのリアクションによって、歌詞の書き方がまた変わってきたりするかもしれないですね。最後に、この先のバンドに対する展望を聞かせてください。
オダ:応援されたいよな。関わってきた人全員に。
スズキ:確かに、愛されるバンドでありたいな。先輩とかを見てて、尖ってるバンドがかっこいいと思う瞬間もあるし、自分の芸術を貫いてるバンドがかっこいと思う瞬間もあるけど、僕はもともとお笑いとかも好きだったから、ネアカな部分があるし、単純にエンタテイメントをしていたい気持ちもあるので、バンクロックっていう激しい音楽をやってるけど、たくさんの人に愛されたい気持ちはあるな。
オオグロ:僕自身嫌われるのがやっぱり怖いし、孤独になるのが怖いし、自分から誰かにアプローチをするのは苦手だけど、でもやっぱり愛されていたい。基本的にみんなそうだと思うから、そういう人に届くバンドになれたらなっていう気持ちはあります。
ヤマオカ:僕ももちろん愛されたいですけど、この4人でバンドができて、音が出せることが楽しいので、それがずっと続けばなって。世界が滅亡しかけても、この4人で音が出せれば、僕はそれがいちばんです。
オダ:さっきも言ったんですけど、自分は銀杏BOYZを見てバンド始めようと思ったから、そういう存在に俺らがなれたら嬉しいです。そのためには演奏がうまければいいとか、そういうことじゃなくて、ちゃんと全部に真剣に、丁寧にやることが大事だと思う。経済的な支援をしてくれてる親とかに対しての責任感もあるので、好きなことをやってるんだけど、ある意味仕事として、それを続けるためにやるぜっていう気持ちがずっとありますね。
─「わかるやつにだけわかればいい」っていうマインドもパンクのひとつのあり方ではあると思うけど、それよりも、優しさや正直さも含めた、自分たちなりのパンク精神を持った上で、みんなに愛されるバンドになりたい?
スズキ:「誰にもわかってもらえない人をわかってあげたい」っていう感じかな。僕自身やらなあかんこと全然できてないし、ほんまにいい人間じゃないし、あかんところもいっぱいあって、生きてるだけで傷ついたり、傷つけられたりが当たり前にいっぱいある。それは個人差はあっても全員感じてることだと思うから、そういうのを一旦なかったことにできる、大富豪の革命みたいな感じっていうか(笑)。傷ついたり、傷つけられたり、傷つけたりしながら生きてる苦しさ、しんどさ、情けなさとかを、パンッて一回なしにできるのがgrating hunnyやったらいいな。自分の人生にgrating hunnyがそういう存在でいてほしいなと思うし、誰かにとってもそうであってほしいなと思います。

取材・文:金子厚武
撮影:中村里緒
RELEASE INFORMATION

grating hunny「未成年だった」
2025年9月17日(水)
Format: Digital
Label: SEEZ RECORDS
Track:
1. 未成年だった
試聴はこちら
LIVE INFORMATION
grating hunny自主企画 「体育館壊す」

2025年9月26日(金)
心斎橋 Live House Pangea
ゲストバンド:JIGDRESS

2025年10月5日(日)
下北沢 SHELTER
ゲストバンド:つきみ
チケット前売:¥3,000 (ドリンク代別)
チケット先着販売受付中
受付URL:https://eplus.jp/gratinghunny/
EVENT
2025年9月21日(日)淀川河川公園 枚方地区 「水都音楽祭2025」
2025年9月23日(火)
『TOKYO CALLING 2025』@下北沢14会場
2025年10月4日(土)
宮城・仙台市内「Fantastic Date fm MEGA★ROCKS 2025」
2025年10月10日(金)
新代田FEVER「FESTIVAL OUT × Ruby Tuesday "Sound Of Liberty" 」
w/ 少年キッズボウイ, JIJIM, 水平線
2025年10月11日(土)
「FM802 MINAMI WHEEL 2025」
2025年10月12日(日)
広島市内10会場「SUPER ROCK CITY HIROSHIMA 2025DX」
2025年10月18日(土)
大阪・心斎橋ANIMA
w/ 極東飯店, 奏人心, 爛漫天国
2025年10月19日(日)
嵯峨美術大学・短期大学「嵐芸祭2025」
2025年10月24日(金)
寺田町Fireloop
w/ THE HAMIDA SHE'S, 炙りなタウン
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